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旅行・地域

2009年10月 8日 (木)

10月6日 瀬戸内紀行

106日 鞆の浦、姫路城

鞆の浦は、潮止めの港として万葉の時代から栄えた。足利尊氏が京を追われ九州で軍を建て直し鞆の浦に兵を集結させ京に攻め上った歴史もあれば、北前船が東北や北海道の産物との交易を盛んに行った港でもある。中世から近世にかけて朝鮮通信使や頼山陽や坂本竜馬、時代の寵児達か活躍した場所でもある。弓を持つ左手の皮の鞆に似ているところから鞆の浦と名付けられたらしいが瀬戸内第一の景勝地といっていいだろう。ごく最近埋め立てと架橋差し止めの住民訴訟が原告側勝訴の判決に終わったが、景観保護と貴重な観光資源保護の観点から妥当な判決だと思う。一旦埋め立てや、橋をかければ元には戻らないからだ。日本に残された貴重な歴史遺産はいまやどんどん消え去りつつある。日本人は変っても、日本人を造ってきた形の痕跡は残して欲しいと思う。2009_10060082 2009_10060085 2009_10060086 2009_10060093

2009年10月 7日 (水)

瀬戸内紀行

105

高松港を1025発出航の四国汽船フェリーに乗る。直島迄約一時間の船旅だ。台風が近づいているが、今日もお蔭様で晴れの天気だ。夏のように強烈な暑さでもなく、風も穏やかでデッキに出て瀬戸内海特有の様々な小島を堪能できた。桃太郎伝説で有名な女木島もあった。直島ではベネッセコーポレーションの地中美術館がお目当てであったが月曜で休館日であった。しかし、安藤忠雄が設計したベネッセハウスや美術館は見学する事ができた。ベネッセは元々は子供向けの教育出版会社だったと思うが、こういう壮大な施設を作って世界中から見学者が絶えないというのは立派と言うほか無い。直島発14.55の宇野行きフェリーに乗る。宇野から一路、鞆の浦へ。夕闇み迫る6時前目的地の仙酔島に着いた。2009_10060041 2009_10060056 2009_10060060 2009_10060061 2009_10060067

瀬戸内紀行

104

 朝5時起床。有楽町6.07分山手線に乗って浜松町へ、モノレール急行で羽田第一ターミナル。日本航空7.20発の徳島行きに機乗。徳島空港830分着、天気晴れ。トヨタレンタリースで1300CCのセダンを借りる。6日に大阪国際空港近くの店に返す約束で約3万円だ。

ナビが入っているので見知らぬ土地でも安心して運転が出来る。30分ほどで大塚国際美術館に着いた。ポカリスエットの大塚製薬が造った美術館だが、先代の社長はいかにして金を儲けるかについて書いた社長としても有名だ。日経の私の履歴書で読ませてもらったが、会社を大きくして、地元に雇用の場を大きく広げた功績は大きい。入場料が3150円、一日千人の入場があったとして、一ケ月一億円位の入場料収入があるのではないだろうか。鳴門の渦潮がすぐそばなので絶好の場所には違いない。鳴門スカイライン、11号線のロマンスラインの瀬戸内の起伏に富んだ景勝地を走る。途中物凄く盛っている店があって思わず車を止め中に入る。びんび家という海鮮の食堂だ。海鮮のさしみ、大きなえび二本のフライ、イセエビが入った大きな味噌汁が占めて3000円だ。繁盛する理由に納得。宿は地球の中心で愛を叫ぶという映画のロケ地になった壇ノ浦港近くの「船かくし」(源平の合戦の時平家が船を隠した故事からきた。)に泊まる。2009_10060013 2009_10060019

瀬戸内紀行

瀬戸内紀行 2009.10.3.4.5.6.

103

 午後2.25分甲斐路に乗って東京へ。早稲田の自治行政研究会の二回目の集まりがあるからだ。4時チョット過ぎに着いたので、体育館の合気道の部室を訪問。胴衣を着た学生が跳んできて挨拶した。私は昭和36年卒の斯く斯くしかじかの者だと挨拶した。100畳敷位の広い道場で女子も混じって30人ぐらいの学生が思い思いに練習をしていた。主将の岡本くんが来て説明してくれたが、練習は楽しいとの事であった。多分女子もいるからだろう。ラグビーやサッカーのようにメジャーなスポーツではないのでそれほどの緊迫感は無い。我々の時と変わらぬ伝統が生きていると思った。当時クラブの創設者である富木謙二先生が部員の学業成績が他のクラブの学生より格段に良いのを自慢されていたのを思いだす。さて、自治研の二回目の集まりは代表幹事の佐藤君の頑張りで今年も30名以上集まって盛会であった。ただ、今後も続けるであれば一万円は高いと思う。数寄屋橋で家内と落ち合い銀座ベルビューホテルに泊まる。2009_10060002 2009_10060003 2009_10060007

2009年9月 3日 (木)

8/24-8/31SEATTLE YOSEMITE

2009_0831824310027 2009_0831824310033 Museum of Flight2009_0831824310034 2009_0831824310057  Pioneer Square Safeco Field2009_0831824310089 Harvor View2009_0831824310072 Metro Bus2009_0831824310123 San Francisco Int. Airport2009_0831824310133_2 Route 140

八月30日ヨセミテからシスコへ。一人旅は楽し。

八月29日、30日 ヨセミテからシスコへ 一人旅は 楽し

今朝もまた寝坊してしまった。National Treasury に登録されている由緒あるホテルなので、電話も無ければ、風呂も無い、シャワーのみだ。八時に起きて、八時に出発、フロントに聞くとMercedまで11時半までには大丈夫着きますよというので急いで出発。車を11時45分までにはどうしても返してくださいよといわれている。3時間45分はギリギリの時間だ。6000フィートのワインディングロードを35分で駆け下りた。途中左手山側の斜面にBrown Bearを発見したが写真などとっていられない。また左手反対側の山では此処数日来山火事が発生していて盛んに煙を出していた。今カリフォルニアは最も乾燥している時期にあたっているそうだ。Yosemite Valleyに降りてきて140号線を真っ直ぐ西に向って走らせる。途中スピードを出しすぎて危ない場面もあったが、Elportal あたりから巡行速度で無事Merced11時半に着いた。後の行程は昨日と逆GreySta.6時ころ着いた。Ciscoの中心部Union Squareに近いAndrews Hotelに無事到着。翌日、台風の影響で3時間半のdelayがあったが日本時間31日のPM730分成田に着く事ができた。

8月29日、30日シスコへ

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Merced川の水をポンプで吸い上げて飛び立つヘリコプター。

ヨセミテの旅 5.6日目

828日、29日 ヨセミテ 一人旅は楽し 五日目、六日目

Mariposa Hotel Inn82歳の婆さん、87歳の爺さんが経営するBBだ。木造二階建ての100年以上経過するクラシックな建物だ。二階のDella’s Roomに案内される。お孫さんの部屋だったのかもしれない。ドアを開けると左にキングサイズのベッドがあり、周囲の壁にはネイチブの作った藁か木の製品が飾ってある。ベランダには蔓性の草花が伸び向かいの山側も望見できてナイスな部屋だ。朝3時半の起床から始まり、慣れない左ハンドル、右側運転ですっかり疲れたので、隣のレストランで食事を済ませたあとは直ぐベッドに潜り込んだ。健康管理が第一だからだ。特に睡眠不足は翌日の活動にモロに影響する。翌日、ここも目覚ましが無いお蔭で若干寝過ごしてしまった。7.30AM起床。直ちにYosemite Valleyに向う。Merced Riverの水は想像以上に少ない。これではRafting は無理だろう。約一時間ほどでRangerの受付事務所に着いた。20ドル払う。Yosemiteは氷河で削り取られた広大な台地で、東京都位の広さがある。早速ビジターセンターに行きツアーを検討したが2時間のFloor Ride が最適と判断する。11時から出発する2時間の一番初歩的なツアーでRangerが案内してくれる。今日の宿泊先Wawona HotelはここからまたWinding Roadを一時間は走らせなければならない標高6000Feetの高さにある。2009_0831824310137 2009_0831824310155 2009_0831824310166 2009_0831824310208 2009_0831824310206 2009_0831824310223

8月27日 マリポサまで 五日目 一人旅は楽し

八月27日 シアトルからシスコへ 旅は続く

朝、三時半起床。4時SEATACに向う。640分發、アラスカ航空7562便だ。844分サンフランに着いた、直ちにMission Transbay にあるGREY HOUND ST.にタクシーで向った。チップ入れて40ドル払ったが時間がないので仕方が無い。グレイハウンドに乗るのは初めての経験だが、地元の比較的低所得者にとっては無くてはならない乗り物だ。お客は殆どメキシコ系か黒人、それから若者だ。AM11.00出発。約3時間半のライドだ。何箇所か停留所に止まって客を拾ったが、やはり場所によっては低所得者が多く住むディストリクトがある。アメリカはそういうところなのだ。RM2.30 MERSEDに着く。HERTZSの事務所に電話して迎えに来てもらう。途中、PLEASE SAVE ME とダンボールの切れ端に書いて女性が立っていたが、連れに来てくれた男はアメリカは自由の国だが自分のことは自分で責任を持たねばならない国だ。と強調していた。多分彼女ドラッグに冒されているのだろう。ハーツでは保険のフルカバーで181.53ドルだ。マツダの新車だ。事務の女が私のIDを見て、70歳で一人旅しかも自分で運転なんてと驚いていた。説明してくれた男が West is PACIFIC East i YOSEMITE と叫ぶ。私はDrive on the Right lane of the ROAD と呪文のように唱えながら出発した。PM4時。140号線をひた走る。Mariposaまで1時間あれば着くだろう。2009_0831824310127 2009_0831824310133 2009_0831824310143 2009_0831824310139

8月26日シアトル、三日目

826日 シアトル 一人旅は楽し 4か日目

今日は午前中市内散策だ。シアトルの町はそんなに大きな町ではない。遠くに雪を被ったM.レーニエ山が輝く、東側から西に向ってつまり海に向って緩やかなダウンスロープになっている。一旦チェックアウトを済まし、ラゲッジをフロントにキープしてもらって外に出た。今日も青空の広がるよいお天気だ。まず、シアトル美術館にはいった。Andrew Wykofu の特別展をしていた。アメリカを代表する画家で作品の数の少なさと、一人の女性だけの細密ともいえる描き方に特徴がある。肩から上の横向き顔の作品があるが、バックに金色に輝く草原を配し、斜め下向きに沈潜した表情の女性を描いた作品が一番有名だが。彼女は一見して北欧の女性かネイチブのインディアンの女性にも見える。無表情のようにも見え、人生をあきらめているような表情は草原のかなたにある小さな木造の黒く描かれた家が表象しているようにも感じられる。

彼女の横たわった裸体の作品もあったが、彼女の秘所の部分が異常に盛り上がったように描かれており陰毛まで描かれいるのには驚かされた。画家というのはピカソもそうだが偏執狂的な部分があるようだ。明日の朝の出発が早いので、バスに乗って空港近くのホテルに向った。バス代がなんと50セント、シニアだからだが安いのには驚く。タクシーなら7.8千円取られるところだ。2009_0831824310070 2009_0831824310092

2009年9月 2日 (水)

8/25

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8/25SEATTLE

一人旅は楽し シアトル二日目(825日)

ホテルのドアをトントンとノックする音でやっと朝に気が付いた。10時半、Check Outと清掃のおばさんが叫ぶ。OH! NO13時間近くも寝てしまった。慌てて起きて、チェックアウトし、Queen Ann’s RC 例会が開かれるホテルに向う。会場に着いた時はまだ誰も居なかったが、暫くしてクラブの会長が姿を現した。自己紹介し、バナーの交換をしたいと申し出た。

会員は30人位いるようだが、この日出席したのは、会長、幹事、副幹事、レギュラーの会員が4人だけだった。この日はロータリーの奨学金でノルウェーに一年間暮らした青年の報告がテーマであった。思わず、6年前GSEのリーダーとしてフロリダに一ヶ月過ごした事を思い出した。

会の雰囲気は日本とは本質的に異なっているように思う。RIの方針を金科玉条のように守る日本のロータリーとは大違いだ。さて、例会終了後、今日の宿泊先WESTINTAXIでいく。運ちゃん、Only Five Blocks !と渋い顔した。チップ入れて5ドル払った。WESTINはシアトルでも一、二の高級ホテルだ。何故選んだかって、此処にはプールがあるからだ。プールでゆっくり身体をほぐしてから、町をブラブラ歩きながらSAFECOに向う。海岸の埠頭が直ぐそば、PUBLIC MARKET周辺が人でにぎわっている。中の海が見えるレストランでビールと野菜中心の食事を取った。SAFECOは今日もイチローは姿を見せなかった。残念、イチローのヒットを見たかったのに。今日も7回で球場を後にして歩いてホテルに向った、途中道を歩いている家族ずれに話しかけた。奥さんは可愛い日本人、子供三人、ご主人が一番小さい男の子を担ぎ上げるようにして歩いていた。何でも大坂出身でボストンにいたがご主人の仕事の関係でシアトルに住んでいるという。大学で歴史を教えているそうだ。ホテルの場所を教えてくれた御礼を言い、別れる。ベッドに入ってからご家族の将来の幸せを祈らずにはいられなかった。大学の教授といっても日本と違い安定してその職を保証されるものではないからだ。

2009年9月 1日 (火)

8/24シアトル

2009_0831824310016 2009_0831824310057 824日~31日 シアトル、ヨセミテ、

一人旅は楽し。

824日。NWA8便、16.10発。定刻に機上の人なる。今回の旅は家内には申し訳ないが、NWAのマイレージが溜まりに溜まっているので何とかして使おうと思い一人で行く事にした。NRT,SEA間をアップグレードして、シアトル、SF間の飛行機代を入れて182810円だ。普通運賃だと80万位かかるらしい。ビジネスに乗るのは始めてではないが、今度の座席は殆どフラットになるので誠に快適だ。食事の内容も豪華で、30人位のビジネス客に7人のパーサーがつききりでサーブしてくれる。当日の朝9時、WASEA)に着いた。まだ新しい空港だ。ゲートを出て市営のバスの発着場に向かう。ボーイングのMUSEUM OF FLIGHT迄、1.75弗。因みに今回の旅行、一人なので一月前ぐらいから慎重に計画を立てた。この際インターネットがどんなに役に立ったかわからない。道順、ホテルの予約、観戦予定のマリナーズの試合日程、料金、全てインターネットで予約、清算した。行き当たりばったりの旅行も不可能ではないが、多分行った先で余計なエネルギーを使ってしまうだろう。Museum of Flightは一見の価値はある。ゆっくり見れば一日掛かってしまうだろう。ボーイングはシアトルの製材業者だったが二十世紀のはじめ飛行機の将来性に着目して飛行機の生産に乗り出したのだった。その際奥さんが献身的に夫を支えた事が書いてあった。そこで2時間すごしバスに乗ってダウンタウンに向った。宿泊先のPIONEER SQUARE HOTELは古いホテルだ。夕方歩いてSAFECO FIELDSに向う。試合が始まってイチローは出ていないのに気が付いた。ケガをしたらしい。残念。しかしキャッチャーの城島を見たので我慢しよう。又相手のオークランド、アスレスチックスのも鈴木という日本人選手がいた。気が付いたことだが、観覧席の客は実にアジア系のアメリカ人が多い。野球は庶民が楽しむスポーツのようだ。この日は疲れているので五回まで見て歩いて帰った。

2009年5月30日 (土)

霧島紀行その3

霧島紀行その3

527日(水)宮崎県経済連特産課茶業部の田中、高橋両君に案内してもらって宮崎県産茶を案内してもらう。途中宮崎県庁の前を通ったが大型の観光バスが止まっており、県庁周辺には屋台が店を出していて、東国原知事の人気が依然として衰えていない事を示していた。宮崎県は歴史的に見ると件南部、都城を中心とする一帯は薩摩藩に組み込まれていて、県の中、北部は秋月、飫肥のような小藩が治めていた経緯があって県としての意識的な高まりは明治期以降のようである。宮崎空港PM3.00ANA,SKD共同運航便で羽田に向う。甲府駅には無事、7.35着くことができた。尚、宮崎茶については地元宮崎、あるいは九州内での消費が殆どで全国版になるには時間がかかるのではないかと思った。

霧島紀行その2

霧島紀行その2

526日(火)朝3.00目を覚ましたが外は真っ暗。再び寝床に潜り込んだ。5時に起きだして風呂に行く。実に気持ちが良い。先客が一人いた。廣島から車で来ていて写真を撮りながら一人で気ままに旅をしているという事であった。六十五、六歳か。高速道路乗り放題1000円が効いていることは間違いない。朝食をホテルで摂った後、高千穂河原ビジターセンターに向う。730分から歩き始め中岳中腹にある自然探勝路を約1時間15分歩く。小鳥のさえずりが盛んに聞こえる。うぐいす、カッコウ、めじろ、様々な小鳥の声だ。AM843分出発点に戻る。大きな鳥居を左手に見ながら高千穂河原から高千穂の峰に向かう。最初は石畳の歩きやすい道であったがその内火山の細かい砂利道になり坂も急で滑りやすく歩きにくくなった。登山口から1.7km約一時間でお鉢と呼ばれる爆裂口に着いた。丸い墳丘の内部は鉄分を含んでいる為か暗紫色の溶岩でそこにミヤマキリシマがびっしり張り付くように咲いていた。ミヤマキリシマの鮮やかなピンクが黒々とした岩肌に映えて壮絶な美しさだ。どうしてこんな環境の厳しいところにこんなに美しく咲くのか。いや、厳しいからこそ美しく咲くのかもしれない。人間でも同じ事がいえるのかも知れない。お鉢からの急な坂道を登りきるとそこは天孫降臨、ニニギノミコトが天から降りてきたといわれる頂上があった。標高1574米。私は恭しく手を叩き次男の嫁ゆきさんの安産を祈った。頂上では賞味期限を一日過ぎたおにぎりを一つ食べた。暫く休んだ後霧島東神宮に向けて歩き始めた。行程5km。かなり厳しく長い道のりではあったが幸い東神社に着くと同時位に激しく雨が降り始めた。広い境内、森閑とした広場でハテどうしたものかと困っていると、一台のクラウンが動き始めた。イヤこれは天の助け。縋る想いで事情を話すと運転していた女性は私を極楽温泉まで連れて行ってくれた。なんという僥倖。参道が長く歩いたら大変だった。この宿は高原町は田んぼの中の一軒やだが、この宿が極楽に思えてきたから不思議だ。全くの偶然でこの宿を選んだのだが、知る人ぞ知る隠れ宿だというのが後でわかった。宿代がいくらだと思います。素泊まり7000円。信じられない安さだ。夕食はカウンターにどっかり座り、年増だが美人のカミさんにお酌をしてもらいながら焼酎の水割りを飲む。カンパチのお作り。シコシコした刺身のお作りが750円。小鯛の塩焼きが800円。ホコホコしたやわらかい白身を箸でほぐしながら焼酎をゆっくり飲む。これが極楽でなくてなんであろう。値段の安さと人をそらさぬサービスの良さ、天然賭け流しの温泉。近くにあれば毎日でも来たいものだ。

霧島紀行その1

70歳の挑戦(2009.5.25日、26日、27日)

霧島火山帯縦走 えびの高原登山口~約3km韓国岳(標高1700米)~約3.5km獅子戸岳(1428米)~約1.5km~新燃岳(1421米)~約1km中岳分岐点から湯之野登山口5km(一日目歩行距離14.5km。中岳(1345米)高千穂峰(1574米)~約5km霧島東神社。

1.      充分な下調べ。(霧島市役所観光課に問い合わせ資料を取り寄せる。)

2.      選択と集中。決断と実行(登山の場合、天候が最大の条件、天候の判断が出来たら決然と実行に移す。26日の午後から九州一帯を始め本州も雨が降り続いた。

3.      天啓、又は偶然の僥倖。霧島東神社に降りてきたら突然の驟雨に遇い、境内にいた女性にお願いして極楽温泉まで乗せてもらう。この温泉が正に極楽。

525日(月)朝3.00時起床。体内時計は極めて正常。3.30分自転車にて家を出る。駅前バスターミナル4.00出発の羽田行きに乗る。八王子まで一時間30分掛かったので心配したが6.20分には羽田第2ターミナルに着いた。ANA619便650分發の鹿児島行きに乗る。シニア割引12000円で鹿児島までいけるのだから有難い。822分ジャストインタイムで鹿児島空港に着いた。940分空港發霧島岩崎ホテル行きのバスに乗る。乗客は2名。運転手はかなりのおじいさんであった。天気は快晴。えびの高原の韓国岳登山口を出発したのがAM11.05だった。PM12.20韓国岳頂上着。標高1700米。晴れていれば韓国まで見渡せるということでこの山名が付けられたというが、それはともかく形の良い開聞岳を遥かかなたに見ることが出来た。山道のそこ此処にお目当てのミヤマキリシマが咲いていた。花は小ぶりで薄いピンクである。凡そこの霧島火山帯には大小20もの噴火口があるといわれていて尾根筋を歩くと御碗型の墳丘と火口湖を幾つか見ることが出来る。獅子戸岳を過ぎ新燃岳の頂上に着いた。一年ほど前に噴火したばかりの活火山だ。硫黄臭の強い噴煙を上げている。新燃岳から中岳に下る途中に湯之野林道の起点があり約4.5kmの路を約1時間半かけて歩く。目指すみやま荘に着いたのがPM5.00.今日の歩行時間は6時間であった。因みにみやま荘は民間の国民宿舎だが温泉が素晴らしく、野天風呂に入り、

2009年5月29日 (金)

霧島紀行

2009_05270029 韓国岳から高千穂を望む。2009_05270059 新燃岳の噴煙。2009_05270067 新燃から見た高千穂。2009_05270082 中岳山中の自然探勝路。2009_05270103 お鉢周辺のミヤマキリシマ。2009_05270105 2009_05270113 2009_05270123

2009年5月21日 (木)

5.19-20K組の旅行

H21.5.19-20 WK組会旅行

毎年恒例のK組会の旅行がTK君、TKA君の二名の幹事の下、箱根で行われた。総勢21名。和気藹々の中で楽しく時間を過ごす事ができた。両T君有難う。2009_0520k0009 2009_0520k0013 2009_0520k0017 2009_0520k0022 2009_0520k0023 2009_0520k0024

2009年5月 8日 (金)

5月4日小楢山

五月四日 小楢山(古那羅山)に登る

連休の狭間、5月4日小楢山に登る。朝6時半出発、同行はN氏。天気は曇り。窪平から左折し西保方面に道を摂る。中牧から右手、オーチャードビレッジフフの看板を見ながら登っていく。この辺一帯は巨峰の一大産地で緩やかな山の斜面一帯がブドウ畑で覆われ、そこに古い作りの大きな木造の農家が点在していて誠にいい眺めだ。

         千里鶯啼緑映紅 

水村山郭酒旗風 

南朝四百八十寺

 多少楼台煙雨中  (杜牧)

中国の有名な詩が思い出される。7時48分登山口を出発。暫く林道を登り、母恋道から登る、母恋し、父恋し道には戦国悲話が隠されているが、戦国時代に夫を戦いで失ったり、尋ねて言った先で人攫いにあったりした話は無数にあったであろう。春の陽光に照らされて登山道のそこ此処にスミレが可憐な花をつけていた。

 山路来て なにやらゆかし すみれ草 (芭蕉)。

小楢峠に着いたのが10時16分。そこから右手に10分ほど登った所に頂上があった。頂上一帯は高原状になっていて晴れていれば真正面に富士山がよく見えただろう。背後は白樺やレンゲツツジ、カラマツの林だ。つつじはまだ全然咲いていないし、カラマツも葉が一センチほど出た位で針金のような芽が20本ほど束になっている状態だった。一時間ほど頂上で横になった。だんだん暖かくなってきた。外に登山者が何組かいたが小鳥の囀り以外は聞こえる音とて無く穏やかな時間が過ぎていく。N氏との会話は特に無いが、今読んでいるAndrew WeilのHealthy Aging  についてちょっと話した。帰りは父恋しだ。途中尾根の正面に幕岩という大きな岩があって鎖がつながれているので登る。そこからの眺めは金峰山も見えて又一段と良かった。大沢山からの下りはかなり急で、「のぼりだったら結構難儀するね」とN氏と話した。1時40分頃フフについた。窪平の温泉で一風呂浴びて帰途に着く

2009年4月26日 (日)

オランダ、ベルギーの旅

2009_04210200 2009_04210182 2009_04210337 2009_04210352 オランダ、ベルギーの旅、4.154.22

オランダ

1.        でこぼこの無い、平坦な土地。

2.        巨人の国。男子平均身長190センチ。

3.        清潔で美しい国。タクシーの運転手も堂々としている。

4.        プロテスタントの国。合理性と節約を重んじる。税金は40パーセント位。物価は高い。

ベルギー

1.         人種の入り混じった国。

2.         ビール、チョコレート、ワッフルの国。

3.         カトリックの国。

15日、朝4時起床。5.15分のバスにて成田に向かう。成田国際空港第一ターミナル北ウイングGカウンター11番に集合。KLMオランダ航空862便にて午前11.15出発。11時間15分の長期フライトだ。この飛行機はボーイング社の777型機で座席が3.3.3に並び、前後左右ともに狭く、長時間のフライトでつらかった。ただ時差が7時間ありアムステルダムのスキポール空港についたのは午後410分で明るかった。バスまで移動しヒルトンホテル着。当初かなり寒いじゃないかと予想していたが以外に暖かく街路樹の緑が目にまぶしかった。この日は早々と床についた。今回のツアーの参加者は成田からは19名。現地アムステルダムからの参加者は4名。全員で23名。夜中の3時頃目覚めたので、バスタブにお湯を張りゆったりと身体を沈めた。私の身体の中で今まで一番頑張ってくれたのはこの細い両足だと思うので「両足さん有難う」と心をこめてゆっくりさすった。166時起床。朝食はたっぷり食べた。穀粒パン、チーズ、サーモンどれも美味しかった。8.15出発。アンネフランクの隠れ家、ダイヤモンド工房、国立博物館を見学。レンブラントの大作、消防士を見る。自画像も何点かあった。光の射す方向からの陰影のある描写、人物の心の奥底まで覗くような表情。今までの無機質な平面的な絵画と一線を画するものだ。外に出ると楡の葉が緑に輝いていた。午後は自由行動だが全員がキュウケンホフ公園に向った。丁度チュウリップの開花時期でスイセンと重なって素晴らしく美しかった。世界中からこの光景を見に来ているようで入場者が多かった。夜有名なコンセルトヘボウにいき三人のバイオリン奏者の演奏を聞いた。プログラムにナショナルファイナルとあったので残った三人の競演だと思う。料金が二人で30ユーロ。他の物価が高いのに較べて安いのに驚いた。この会場は音響効果が良いことで有名だそうだ。

二人目の男性が弾いたシベリウスのバイオリン協奏曲が一番だと思ったが結果はわからない。7時から始まって演奏だけで9時半頃までかかったので演奏が終わった段階でホテルに帰った。三日目17日、朝食後ハーグに向う。マウリッツハウス美術館を見学、近くに国会議事堂、首相官邸、官庁街が広がる。フェルメールの数少ない作品の多くが此処にはある。午後デルフト焼きの工房。を見学。キンデルダルクの風車群を見る。この地域一帯は世界遺産に指定されている。風車は現在使われていないそうだ。この日の宿泊はアントワープ駅前にあるラヂソンSASアストリッドホテル。

四日目18日、土曜日は徒歩にてアントワープ市内観光。ルーベンスの家。ノートルダム大聖堂を見学。ルーベンスは50歳で奥さんを亡くし、三年後16歳の美しい少女を妻に迎え、三人の子供をもうけた。既に画家としての名声も高く、全てに満ち足りた生涯を送ったようだ。午後ゲントへ。聖バーフ教会、観光後バスにてブルージュへ。ホテルはマーチンズ ブルージュ。ブルージュはマルクト広場を中心に周囲を堀で囲み典型的な中世の都市の形を残している。一時産業革命の近代化の波に取り残されたが今ではそれが幸いし年間では三百万人とも言われる観光客をひきつける人気都市になった。中世から伝わるレース編みが格好のお土産になっている。二泊目の夜は市内一番のレストランDUCdeBOURGOGNEで食事。美智子今の皇后陛下も食事をされたレストランと聞いた。

今まで天候にも恵まれ、朝晩は寒いが日中は程よく暖かく公園や街路樹の葉が緑に輝き、かわいらしい花もそこ此処に咲いてどこを向いても絵になる景色だ。六日目19日の月曜日はいよいよベルギーの首都ブラッセルに向う。オランダ、ベルギーともに小国ながら片側三車線の高速道路が四通八通していてブルージュからブラッセルまで一時間半程の距離だ。この日も快晴バスで市内も観光し後は徒歩にてグランプラス、小便小僧他を見学する。宿泊はシェラトン。市内中心部にある巨大なホテルだ。七日、八日は帰国の為の移動。22日の朝930分無事成田に着いた。

全般的な印象としては、なんと言っても天気が良かった事。キュウケンフォフは公園なので天気が良くて本当に良かった。それから、参加者が皆旅慣れていて、時間を守り節度を保って行動したので楽しく旅ができたと思う。総勢23名、内男性は5名。私が一番高齢ではなかったかと思う。

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2009年3月14日 (土)

東大寺、平城宮跡、室生寺、法隆寺等

一日目、東大寺、興隆寺、奈良国立博物館、元興寺二月堂お水取り、二日目、室生寺、長谷寺、平城京跡、三日目法隆寺、北野天満宮

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2009年3月 8日 (日)

三月二日奈良のたび

三月二日から四日、二泊三日旅行、古都を訪ねて

NHKの高校生講座、日本史の番組を見て、日本の古代史、特に大和朝廷の成立過程に興味を持った。縄文、弥生時代が西暦紀元前まで数千年続き、主に大陸から稲作技術がもたらされ、銅、や鉄器の製造技術が伝播されるに及んで大規模集落が各地にでき、各地に部族国家が出現した。

魏志倭人伝によると邪馬台国の女王卑弥呼が時の中国の皇帝に使いを出したという記事がある。たぶんその時代は各地の王と名乗る部族が互いに争って覇を競っていたに違いない。この辺の時代は古墳時代だろう。飛鳥時代を経て奈良の平城京時代、京都の平安京時代へ続いて藤原氏の摂関政治が400年近く続いて国風文化が花開いた。

奈良は高校生の三年生のとき修学旅行で法隆寺、隣接する中宮寺、また東大寺、興福寺、薬師寺、若草山の鹿と戯れたぐらいで、正直余りなじみが無い。一度じっくり見て回りたいと思っていた。

一日目は甲府発7.56のあずさで東京へ9.26。新宿から中央線に乗り換え東京へ、東京駅始発10.33分新幹線ひかり409で京都に向かった。朝自宅で軽い食事は済ませてあったが、口が寂しいといけないので駅の構内にある売店で品川巻を探した。例の小さな米の揚げたのに醤油をのせ海苔で巻いた菓子だ。ところが売店の女性が品川巻がありますかと聞いてもまったく知らないのだ。逆に品川まきって何ですかと聞かれてしまった。昔はどこの売店にもおいてあったはづの菓子である。結局趣味の味と書かれている薄い揚げた煎餅やピーナッツ、柿の種がいろいろ入った菓子を一袋買った。時代が変われば売っている商品も変わる。われわれはとうとう化石人間、いや後期高齢者のお仲間入りだねと女房と顔見合わせて笑ってしまった。京都駅に着くと構内にある蕎麦屋さんに入り雛御膳を食べた。三輪そうめんの細いそばにプリプリの海老の天麩羅としし唐がのっていておいしかった。いかにも京風で薄味だ。13.50発のJR奈良線で奈良に向かった。奈良駅に着くと隣接するホテル日航奈良にチェックインし必要な荷物だけ持って外にでた。この日は晴天で比較的暖かかったので歩いて見学するには丁度よいお天気だ。東大寺前でタクシーを降りた。東大寺は聖武天皇建立の世界最大の木造建築物だ。大仏の大きさも勿論だが建物の壮大さにも圧倒される。何度か戦火にもあって鎌倉時代に再建されたという話も聞いているが現代のような進んだ道具が無い時代にこのような壮大な建物を建てる技術に改めて感動する。渡来人の高い建築技術や石工技術に負う所も大きいであろう。東大寺をすっかり堪能して正面の南大門から歩いて奈良国立博物館に入ったもうすでに4時半を回っていたので五時まで三十分しかなかったが駆け足で見て回った。別館入り口正面にあった国宝薬師如来像の堂々としたお姿に心を打たれた。元興寺にあった仏像だという。どっしりと落ち着いていて、包み込むような温かみを感じた。そこを出て興福寺の境内を歩き馴染みのある五重塔を眺めた。だいぶ夕闇がせまってきた。猿沢の池に沿って道を下っていくと商店街に着いた。ピアノという喫茶店でコーヒーを飲む。若い店員と家内が会話を交わした。現代風のかっこよい若者だ。そこを出て元興寺を訪ねた。途中狭い道路を挟んだ古い住居の前を歩いたがこういうところに何世代にもわたって住んでいる人の生活はどんなものかと偲ばれた。今御門町、勝南院町、西新屋町を抜け、広い道路を渡ったところに奈良町物語館という変わった店があったので思わず入った。入り口で若者が篆刻のはんこを彫っていた。吉野杉でできた箸と楊枝入れを買った。元興寺はもうすでに戸がしまっていた。二月堂のお水取りが7時から始まるというのでそこから歩いた。ホテル奈良の横を通り荒池を過ぎ春日大社の表参道を登って若草山の麓を左に向かった。もうすっかり日が暮れてかすかな電灯の灯と人の流れについていった。疲れた。かなり歩いた。女房もよく頑張るなと思う。二月堂には7時5分前ごろついた。漆黒の闇の中から突然火の粉があがった。お水取りが終わると奈良に春がやって来るのだという。1250年も続く伝統行事だ。バスで奈良駅まで乗りやっとホテルについた。PM8.30ホテ

2008年10月27日 (月)

10月24.25日、中禅寺湖の秋

10月24.25 中禅寺湖の秋、

盛秋から晩秋に移り変わろうとするその狭間の24日は前線の影響で小雨交じりのお天気でした。ある住宅メーカーの主催するツアーに参加して、朝八時甲府を出発、

日光市

に入ったのが12時半頃でした。高井家という古い作りの料理屋さんで湯葉料理を食べ。食後、いろは坂を登って華厳滝を見学、その後中禅寺湖畔のイタリア大使館公園別邸を見学。PM四時半頃、鬼怒川温泉山楽に到着。翌、25日。大正天皇の別邸、田母沢記念公園、家光廟、等を見学。夜八時甲府に着きました。2008_1025100028 2008_1025100038 2008_1025100040 2008_1025100042 2008_1025100070 2008_1025100084

2008年10月 6日 (月)

10月3日岩手の旅

10月3日花巻

昨夜南花巻温泉、大沢温泉山水館に宿を取った私どもは、ゆっくり温泉につかり旅の疲れを取りました。この旅館は古くはお百姓さんの農閑期に疲れを癒す自炊場として発展したようで、棟は新館と繋がっていますが菊水館という木造の古い旅館が横にあります。私は朝早く起きて豊沢川の淵にある野天の混浴場を訪れました。大きなカエデの木が三本川向こうあって紅葉の時期はさぞかし素晴らしい眺めだろうと思いました。豊沢川も結構水量豊富で上にはダムがあるようです。食事の後ゆっくり近所を散歩しました。ある農家ではおばあさんが家の前の畑の草取りをしてました。季節の草花がきれいに植えられ清潔感あふれる佇まいでした。村の氏神様でも祭られているのでしょうか小さな社がありましたので、家内安全を祈って手を合わせました。さて旅館の車で10時50分出発、先ず新渡戸稲造記念館をゆっくり見学しました。新渡戸家は16世紀から花巻城士として文武両道に秀でた藩士の家柄だったようですが、稲造はそういった先祖を誇りにも名誉にも思ったようです。そして「願わくばわれ太平洋の橋とならん」という強い願望を持って勉学に励みついには国際連盟の事務次長を七年間務めました。真に国際人といえるのは新渡戸さんでしょう。日本人である事に誇りを持ち世界平和のために活躍した新渡戸稲造の魂安からん事を祈ります。その後、宮沢賢治記念館、童話村、等を見学し新花巻駅16時59分發のはやて224号で東京に向かいました。甲府には10時39分に着きました。2008_1003100103 2008_1003100111 2008_1003100117 2008_1003100114 2008_1003100131 2008_1003100141

2008年10月 5日 (日)

岩手の旅、二日目。

102日 岩手の旅 二日目

昨夜は田野畑唯一の大型旅館、羅賀荘に泊まりました。因みに今回の旅行はJR東日本の特別企画、鉄道と旅館がセットになった旅行で旅してます。おまけに我々二人とも65歳以上ですのでその特典もフルに活用しております。朝820分旅館の車で島越の船着場まで送ってもらいまして、三陸リアス海岸の見学に出発しました。850分から940分迄、50分間の船旅を楽しみました。台風一過朝から真っ青な空が広がってます。三陸海岸は地中の岩礁が隆起して出来た岸壁だそうで南北8キロにわたって続いているそうです。ウミネコが群れ飛ぶ海上を、遊覧船陸中丸は進んで行きます。数十メートル屹立した岸壁には赤松の林が見事です。打ち付ける太平洋の荒波が白い波濤をえがきます。真っ青な海、真っ青な空、白い波濤、正に男性的な光景です。

さて、陸に上がって我々は103分島越駅から釜石に向かいました。宮古から釜石までは三陸鉄道の直通運転です。因みに宮古から釜石までの電車は一日9本しかありません。途中11の無人駅がありました。釜石126分發の釜石線に乗り遠野に向かいます。釜石線は釜石から花巻までキロ数90キロ駅が22あります。トンネルも結構ありますが平野が多く山田線よりはよっぽど拓けてます。そして丁度真ん中あたりに遠野があります。遠野は柳田國男の遠野物語で民俗学発祥の地として有名ですが、それがなければ何の変哲もない田舎町といっても言い過ぎではないでしょう。今からは想像もできない位隔絶された辺境の地にあって、貧しく閉じ込められた生活空間の中で伝承されてきた様々な物語、それを発掘した事が民俗学の原点かもしれません。博物館に展示さていた、様々な農具が当時の農民の苦しい生活を髣髴させます。遠野を一通り見学した後15時9分の電車に乗り花巻に向かいました。当初、遠野に泊まる事を考えましたが、花巻で降り、花巻南の温泉に泊まる事にしました。駅に着いたのが16時3分、早速駅の旅館案内書に行きました。花巻南温泉は豊沢川に沿って13の温泉があります。すなわち、台温泉、新湯本、金矢、松倉、志戸平、大沢、渡り、山の神、高倉山、鉛、新鉛、以上です。迷いましたが女房の意見で大沢にしました。大正解、人生は常に丁半博打ですね。大沢温泉山水閣は歴史のある名旅館、食事の内容も最高でした。2008_1003100050 2008_1003100054 2008_1003100063 2008_1003100092 2008_1003100088 2008_1003100097

岩手ローカル線の旅

イーハトーブの国、岩手ローカル線の旅

101日 甲府發708分「かいじ102号」で東京に向かう。908分新宿着。東京駅始発の新幹線「はやて15号」1056分發で盛岡に向かった。1322分盛岡に着く。所要時間2時間26分。早いですね。今から約半世紀前私が大学受験で中央線に乗ったときは、当時蒸気機関車で甲府新宿間が4時間半かかりました。時速300キロ近くで走る新幹線の車窓からは黄金に波打つ稲田が見え、コンバインで刈り取りをしている風景も見ることが出来ました。そして広大な稲田の中にポツン、ポツンとAEONの巨大なショッピングセンターが望見されました。さて日本中どこに行っても同じような風景が見られるなかで、今回我々の旅の目標は少しでもそういったところから離れたものを見てみたいということで、旅は此処からが本番です。盛岡駅からJR山田線に乗って宮古まで。1351分發快速リアス、宮古まで7つの駅にしか停まりませんが、駅はその間27あります。ちなみに山田線は一日5本しか走っていません。2両連結のディーゼルカーが狭い山間を走っていきます。人家も少なく陸の孤島といっていいのかもしれません。おそらく林業しか生活の途はないと思います。乗客も僅か、多分外国人の旅行者と思しき人が数組乗っていました。宮古着1552分、空が若干曇って暗くなってきました。ここで三陸鉄道北リアス線に乗り換えて田野畑に向かいます。三陸鉄道は太平洋に面して入り組んだ陸中海岸を走るので、でっぱりの山を突き抜けて行かねばなりませんので、短いトンネルがいっぱいあります。列車は二両連結で一両はシャンデリアの点いたレトロな車両でした。一見お召し列車みたい。さて田野畑駅に1652分に着きました。駅の正面にはカンパネルラ田野畑と木の看板が掲げてありました。今日は10時間近く電車に乗ったことになります。お疲れ様。

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2008年7月 7日 (月)

マレーシャ旅行、挨拶

2008_070128720080118 ペナンで一番古く、格式のあるイースタン、&オリエンタルHOTEL、お勧めです。

2008_070128720080108 2008_070128720080146 2008_070128720080114 2008_070128720080080 200862772_170 6月26(木)RCの夜間例会がありまして、私の会長年度の全ての行事は終了しました。昨年11月中旬より始めたブログも3500近くのアクセスがありまして、どなたが見ているのかわかりませんが、心から感謝申し上げます。これも、道部ガバナーがIT化を進めましょうという運動に呼応したものでしたが私にも様々な意味で勉強になりました。今後続けていくかどうかにつきましては思案しているところですが、続けていくにしても個人的な趣味、旅行とか読書あるいはラグビーの観戦に絞られるでしょう。今までご覧頂いた方には改めて感謝申し上げます。

6月27日マレーシャ旅行

マレーシャ6日間の旅

627日(金)朝6.45甲府駅前発の山交バスで成田へ。約3時間。

14.05       成田発JL723便 20.20 KL着。機内はそれほど混んでいなかった。

宿泊先 BERJAYA TIMES SQUARE HOTELKL飛行場から約50分。

ツアーの人数は26名。(クラブ、ツーリズム)3つのホテルに分宿。10.30頃部屋に。TIMES SQUARE は市内中心部にあり、複合的な建物だ。アップグレードの部屋なので広い。

628日(土) 朝8.30KL出発 マラッカへ。快晴日中外に出るとかなり熱い。マラッカは木の名前らしい。今でも海賊船の出没する危険な海峡だ。 KLに戻り、蛍を見に行く(セランゴール川)。平型の木船に乗って川淵に張り出している樹木の液を吸うために明滅しながら舞う蛍の姿は誠に幻想的。

     ホテルに着いたのは11時頃。

629日(日) 朝8.30KL出発。午前中は市内見学。マレーシャは多民族国家だが、60パーセントを占めるマレー人は回教徒であり、至る所にモスクがある。午後キャメロン ハイランドへ。CHは標高1800メーター、原住民の住まいも散見された。CHは紅茶で有名だが、茶園はそんなに広くない。一年中摘採出来るようだが、手済みではないようだ。野菜作りが盛んでマレーシャ全土に出荷している。

630日(月) 朝8.30出発。サボテン公園。バザール見学。ブキット、メラにあるオランウータン保護島でオランウータンを見学。

        ペナン着。ペナンは長い橋(ペナン、ブリッジ13.5km)を渡って行く島、人口130万人。6割は中国系、一割がインド系だ。

71日(火) 午前中自由行動。ホテル前に停まっていた観光用の自転車に一時間45RPで乗せてもらい、チョットひと回り。それから私はホテルのプールで一休み。椰子の実をホテルの従業員が落としていて、落とした椰子の実の先端を切り、中のエキスを飲ませてもらう。午後、ツアーの皆さんと一緒にペナン市内を見学。

        PM19.35 ペナン発。車がラッシュで渋滞ギリギリ飛行機に間に合う。PM20.30KL着。PM22.50KLJL724便にて成田に向かった。

72日(水) AM6.55成田着。解散。AM8.50発のバスの乗り甲府に帰る。

上記のように、6日間の旅ではあるが、正味4日間の短い旅であった。

滞在中も、朝早く出発、夜遅くHOTEL着でゆっくり休む時間が無かったが、ホテルをアップ、グレードしたこと(2万円アップ)で、KL、ペナンでは最上級のホテルに泊まる事ができてよかったと思う。ただ本当に自由な時間を楽しめたのは7/1の午前中くらい。安いパック旅行の常で行く先々で、ショップに連れて行かれたが、これが無ければもっともっとのんびりした旅ができたはず。しかし、マレーシャという国は想像以上に豊かな国で、高速道路が四通八通しており、走る車も(八割がたは日本の車)新しく、生活水準が高い事を示していた。また国民も全体におっとりしており(殆どが回教徒)、東南アジアによく見る貧民街とか、こじき、物売りは皆無であった。

        マレーシャは亜熱帯気候に属しているので、乾季、雨季の季節の違いはあるが一年中花が咲き、様々な果物が食べられる国のようだ。ロータリーの会長職が26日の例会で終了したので、それを記念して妻を連れ参加した旅であった。

2008年5月31日 (土)

ぶらり夫婦旅

2006_057 2006_045 2006_075 2006_056 草千里、杵島岳。

阿蘇旅行

豊肥本線 「ぶらり夫婦旅」                 平成18年6月25日

確か、一ヶ月程前だったが日経流通新聞に「ローカル線を行く」というコラムがあり、豊肥本線が載っていた。豊肥本線というのは九州のほぼど真ん中、大分県の大分駅から熊本県の熊本駅まで約148キロを走るローカル線だ。ただ大分県側は九重連山の下側を走り、熊本に入るとあの雄大な阿蘇の外輪山の内側、所謂カルデラを走るので何といっても景観が素晴らしい。新聞の写真には黄色く塗られた2両連結のディーゼルカーが阿蘇5山を背景に走っている姿が載っていて、是非乗って見たいと思い出掛けることにした。梅雨の最中なのでお天気を心配したが、何とかなるらしい。六月二十日朝まだ夜も明けきらぬ真っ暗な町を歩いて、四時甲府発羽田空港行きのバスに乗った。女房も一緒だ。六時三十分には空港第二ターミナルに着いた。羽田空港は来るたびに新しく立派になっていて驚く。大きな吹き抜けのドームの天井部分に星空が描かれておりニューヨークのセントラルステーションの正面天井と同じだ。二階のラウンジで持参のパンをほうばりながら生ビールの「大」を喉に放り込む。空港で飲むビールはどうしてこう美味いんだ。女房は「仕事の開放感があるからではないですか」といった。さて無事に大分空港に着いた。(8.40離陸10.00大分空港着)この空港は国東半島の鼻先にあるので大分空港まではバスで約五十分位かかる。お天気は曇りだが気温は高めで別府湾の波は穏やかだった。大分駅で熊本までの切符を買った。駅のホームで電車を待っている間、女房はベンチに座って七十過ぎのお婆さんと盛んに話をしている。後で聞いたら、カボスとお米を作っていて今日は温泉に入りに行くのだという。豊後竹田に降りるのだったら是非姫だるまをお土産に買って帰りなさいと言われたそうだ。第一日目の今日は豊後竹田駅で降り岡城跡を尋ね、名水、湧水を訪ねるのが目的だ。ホームに降りると早速荒城の月の音楽が流れてきた。春高楼の花の宴、めぐる盃影さして 千代の松ヶ枝 分けいでし 昔の光 今いづこ 我々には懐かしい曲だ。駅の構内にある案内所で町の様子を聞いた。小さい町なので二時間もあれば岡城跡はじめ大体見て歩けるという。早速備え付けの電動自転車を借りて出発した。駅の前にブロンズの乙女の像が立っていた。よく見ると朝倉文夫の作だ。そうだ朝倉文夫も竹田の出身なのだ。伏し目がちにつつましく立った姿がなんとも美しい。岡城跡は駅からはかなり登ったところにあったが電動自転車のお蔭でそれほど苦労せずたどり着けた。女房も必死についてきた。岡城は今でこそ石垣しか残っていないが源義経を匿うために造られたとかいう古い城だ。背後が高いがけになっていて天然の要害といって良い。前方にははるか9重連山がかすんで見えた。本丸跡にお堂があり、見晴らしの良いところに朝倉文夫が作った滝廉太郎の坐像があった。進んだ道こそ違え、多感な少年時代を過ごした竹田の地は二人の心の成長に多大な影響を与えたに違いない。滝の素直な旋律、朝倉の写実の的確さ、純粋な目で物を捉え理解する心が竹田の地で育くまれたように思う。朝倉はたくさんの名作を残したが、滝は23歳の若さでこの世を去った。余りに短い命だったが明治の黎明期に日本人の心に響く数々の名曲を残した。

入り口の受付に戻ってトレパンを履いたおじさんにいろいろ聞いた。どうも市役所の嘱託の職員のようだ。明日登る祖母山の話をすると、登山口から片道三時間ぐらいはかかるそうだ。女房は「昨日から寝てないので、私にはえらそう」という。無理もない洗濯やら、片付けで寝る時間は殆どなかっただろう。おじさんが「それじゃー、長湯温泉に泊まったらどうですか」と親切にも電話で温泉をあたってくれた。例の姫だるまが欲しいことを話すとどこの売店にも無く、製作者に直接電話してくれてやっと二個だけ駅の案内所の方に預けておいてくれることになった。遠くから来た旅人とはいえ、会う人会う人本当に親切だ。正直我々もこういう旅がしたくて来てるのかもしれない。駅に戻りバスに約50分乗って長湯温泉に着いた。乗客は我々を含め三人だった。翌日又豊後竹田の駅に戻り、阿蘇まで電車に乗った(AM9.27発)。今度は二両連結の特急電車で赤い塗装が施されており、床は珍しく板張りだった。天井や椅子の肘掛の部分も木で出来ておりなんとなく落ち着く。電車には若い女性のJRの制服を着たパーサーが乗り込んでおり、車内放送をして車窓の景色を説明したり、弁当やお茶等販売していた。阿蘇の駅(AM10.08着)からバスで中岳ロープウエー入り口に向かう。バスには年配の女性一人と香港から来たOLが二人乗っていた。今日は青空が広がりよいお天気だ。有難い。運転手さんの話では雨が降ったりすれば霧がでて一寸先も見えないのだという。冬になれば雪も積もるし道路も凍結することがあるんですよと話してくれた。要するに我々はラッキーなのだ。何故って明日は雨が降ってお天気が悪いらしい。ロープウエーに乗ってガスの吹き出ている火口の底を覗いたりして下に降った。韓国人、中国人、台湾人のお客さんがすごく多い。特に韓国人の女性は元気だ。お腹を前に突き出すようにして大声で仲間と話しながら歩いている。バスの発着点に戻って出発の時間を見ると一時間以上あるので歩いて下ることにした。草千里まで30分ぐらいだという。道路の両側にはなだらかな丘陵が目の届く限り広がっている。吹く風の匂いを感じ、ところどころに咲く可憐な花を眺めながらゆっくり歩いた。途中牧場の入り口の柵があって目一杯緑の草原が広がっているので思わず中に入っていった。勿論牧場なので牛の乾燥した糞には気をつけねばならない。紫色のアザミが咲いていた。アイルランドもこんなところが一杯あるらしいよと女房に話した。暫く歩いていると草原の中に幅二メートルぐらいの遊歩道があるのを見つけその道を通ることにした。レストランの背後に形の良い山があって、聞くと阿蘇五山の一つ杵島岳(きじまだけ)だという。標高1332メートル、30分で登れますよというので登ることにした。お昼を過ぎていたので先ず腹ごしらえをしなければならない。カツどんを注文した。味付けか濃くて女房は辛い辛いといったがこれも外国人向けの味付けか。30分ほど休んでから登り始めた。アスファルトの路が途中から石の階段になっていた。高さは稼げるが全山草原なので時々強い風が吹いてくると帽子に手をやって抑えなければならない。女房も懸命についてきた。女房は5月18日の生まれ、御年63歳になるが病気らしい病気もせずよく頑張るなと思う。俺の今日あるのも女房のお蔭だ。と口にはださんが心の中では思ってる。我々位の年になると奥さんに先立たれたり、自身も病気持ちで無理の効かない体になっているのが結構いるんだ。さて頂上に着いた。360度の素晴らしい眺めだ。暫く眺望を楽しんだ後ゆっくり足元に気をつけて下った。草千里からバスに乗り阿蘇駅に向かった。今日泊まる宿は、草千里のレストランから電話してパンフレットで何十とある宿のなかから、阿蘇の宿という内牧温泉にある民宿を確保してある。選ぶコツは大きな旅館でなく、又官営の施設でなく人のぬくもりが感じられるか否かにメヤスを絞っている。内牧温泉バス停から歩いて五分めざす旅館阿蘇の宿はあった。泊まりは我々二人だけ、梅雨の中だけにお客さんはおらんとです。と食事の給仕をしてくれた女性は明るく答えた。夕食のメニューは肥後牛の焼肉と新鮮なキャベツ、馬肉の刺身、山女の味噌田楽焼き、山芋の乗ったそば、ゴーヤーの和え物、高菜の混ぜご飯、肉団子の入ったお澄まし、等等食べきれないほど一杯出た。例の女性が付きっ切りで我々の話しの中に入ってくれた。どうもここの若旦那の奥さんらしい。酒は熊本名産の米焼酎「しろ」をいただいた。

三日目、朝六時に起床して朝風呂に入る。この民宿は風呂を一般に開放しているので旅館には不釣合いなくらいでかい風呂だ。噴出する温泉の量も多く温度も熱い。露天風呂のほうがぬるめなのでもっぱら露天風呂に入り、後冷たい水風呂に入った。風呂のあと下駄を履いて旅館の周りをチョット散歩してみる。若干雨が残っているが昨日は夜中に相当強い雨が降った。遠くの山が煙って見える。昨日のうちに阿蘇に登っておいてよかったなー。8時に朝食、タクシーに乗って8.51分発の内牧発熊本行きの普通電車に間に合わせた。9時台の電車がないのだ。タクシーを使ったのはここだけ。後は全部バス、市街電車(熊本)、それから徒歩。熊本では熊本城の中外をよく歩いた。壮大な熊本城はご存知加藤清正の築城である。城内に120もの井戸が掘ってあるそうで、さすが戦国の武将、豪胆にして細心。城の入り口に多分市の職員だと思うが足軽の格好をして槍を持った番兵が二人いたのでお願いして一緒に写真をとった。観光立県に向けた熊本県の熱心な姿勢が感じられる。確か熊本県の知事は潮見さんとかいう女性だ。ほか、熊本工芸館、細川刑部邸を見学し午後四時50分発のスカイネットで帰路に向かった。家には夜10時前に着いた。

2008年4月14日 (月)

4/14山ノ神千本桜、乙ケ妻しだれ桜

2008414_010 2008414_027_2 2008414_028 2008414_031 山ノ神千本桜は豊富の丘陵を越えて山を登った所、参道入り口から約一時間歩く、乙ケ妻のしだれ桜は今が満開、樹齢二百年とも言われる太い幹からこれまた太い枝が四、五本枝別れしている。

2008年2月24日 (日)

カンボジャの思い出

カンボジヤ未知の国。

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2008年2月17日 (日)

館山の海

ホテルに泊まった翌朝早く、私は一階のコーヒーラウンジの隅にあるドアを開けて外に出た。ホテルは富浦岬の突端に立っているので海岸に出る為にはかなり勾配のある坂を一気に降りなければならない。朝の空気は冷たく、風が海岸のほうから吹いてくる。道の両側は5.6メートルの竹薮で覆われていた。海岸に出た。波は静かだ。ザザザ、ザザザと白い泡をたてながら砂浜に打ち寄せてきた。空にはヒュルル、ヒュルル鳶が弧を描きながら飛んでいた。2008217_035 2008217_041

2.16.17。50年ぶりの館山

2008217_031 前前から一度は訪れたいと思っていた館山に行くことができた。当時早稲田大学の木造の寮があって、合気道の夏合宿で二度ほど過ごしたことがあったのだ。寮の目の前に海水浴場が広がっていて、合気道の練習をした後は皆で海水浴をしたものだ。勿論半世紀も前の話なので、何にも無い本当に辺鄙な町ではあった。幸いタクシーの運転手が大学の看板のありかを知っていてつれていってくれた。木造の校舎は跡形も無く雑草が生い茂っていた。2008217_009 2008217_010 2008217_015 館山湾の遥か向こうに沈む夕陽がものすごく綺麗だった。

2008年2月15日 (金)

登山

Dscf0015  Dscf0029 北アルプス餓鬼岳に登る。ツガイのニホンザルのでかいのがいた。下を向いてあるいていたら、ケツのでかいのが前を歩いているので、最初熊かと思ったら猿だった。

2008年1月13日 (日)

雨飾山

雨飾山紀行

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雨飾山紀行

雨飾山紀行                  2005年10月21日、22日

人も山もやさしかった

かねがね一度は登りたいと思っていた雨飾山、何年か前にロータリーの仲間と撮影旅行に行ったことがあり、その日の秋の穏やかな陽に輝いて時間が止まったように黄金に映えた小谷盆地の事が忘れられなくて21日の朝出掛けることにした。急のことで、まずインタネットで宿泊の第一番目にあった、村営雨飾山荘が予約で満杯、栃の樹山荘も一杯、三番目にかけた山田屋旅館でやっと部屋が確保でき一安心。

甲府発9.08分発の特急あずさに乗った。この電車は南小谷まで直通で誠に都合がいい。松本からの大糸線に乗って眺める安曇野の景色は見慣れた山々の連なりや家並み、畑等々なんとなく心が落ち着く。約2時間半の午前11時39分には南小谷に着いた。駅から45分発の村営バスに乗る。大型のバスだが乗客は三人だった。12時35分にバス停に着いた。実はバス停から登山口までは歩くと一時間以上かかるのだ。そこで早速通りかかった車に乗せてもらう。夫婦とお婆さんの三人ずれで鎌池のほうに行くのだという。同じ方向だ。ラッキー。41分に登山口からすぐ歩き始める。実は今日は快晴だが明日の土曜日はお天気が悪いらしい。時間が充分あるので荒管沢あたりまで行こうと思う。途中山から下りてくる多数の登山者に行き会った。近年特にこの山は人気が高い。多分そんなに高い山でもなく危険なところもない往復6時間の手頃な山だからだと思う。しかも麓には信玄公の隠し湯と言はれる温泉があるのも大きな魅力のひとつだ。その故かどうか殆どが50歳いや60歳以上の元気な夫婦が多い。さて荒管沢に着くと雨飾山の全貌が見えてきた。下から仰ぎ見ると鋭い峰が三つあり一部ガレた部分があって赤や黄色の紅葉に映えて美しい景色だ。写真を撮って引き返す。3時10分に登山口に戻ってきた。うす暗くなった駐車場にはもう何台も車がなかったが丁度帰り支度をしていた30代後半の男性に山田屋旅館まで乗せてもらう。

長野市

内に住んでいる人で仕事の関係でなかなか休みが取れないのだという。お礼をいって旅館前で降ろしてもらう。さて泊まった山田屋旅館だが少なからず感動した。実はこの文章もこのことを記すためにある。案内された旧館の部屋に雪山賛歌と記された私家版のけっこう厚手の本がおいてありそれを読むと江戸時代からつづいた老舗の旅館だ。しかも18代の山田寛さんは今生きていれば101歳になる方で早稲田を卒業しており、スキーをこの地方に始めて広めた人だという。この本は寛さんを軸にして書かれており、当時の生活がしのばれて興味深い。今から思えば信じられないくらい山深いところから早稲田大学へ入学したというのも当時としては大変なニュースだったんじゃないだろうか。また親や親戚の反対を押し切って元千葉の網元の娘で当時大町に住んでいた「はな」さんをお嫁にもらったこと。はなさんも大旅館のおかみさんという立場で大変な苦労をしたんだろうと思う。閑話休題。風呂からあがりゆっくりしたところで、夕方6時食事の案内があった。広間に行くと、お膳の支度ができていた。すでに何十組かの夫婦連れが席に向かい合って食事をしていた。私は一人。お膳を見て驚いた。魚の焼き物が目の前にあり、揚げ物、煮物、酢の物、刺身、等々手を抜くことなく完璧なまでに揃っている。しかも大ぶりで作りたてのよもぎ饅頭まで添えられていた。私は心から感動しお酒を「かん」してもらって、大満足で食事を全部たいらげた。ここでお金のことを言うのも野暮な話だが、いまどきこれだけのご馳走がついて、9000円は安いと思う。いやいや私の言いたいのは、中身に誠意がこもっており手を抜いてないというのが良くわかるからだ。最近では雑魚寝の山小屋などでも平気で此の位の料金は取る。しかも部屋は6畳の日本部屋で床の間には掛け軸までかかっている。翌朝5時に玄関で挨拶すると割烹着を着た70代の品のいい女将さんがもうすでに帳場に座っており、登山靴が一足、上がり口に用意されてあった。おにぎりのお弁当は若いお嫁さんらしき小柄でキチットした顔つきの人が渡してくれた。玄関を出るとき、お上さんは「お帰りには私どものおふろにはいって体を温めてお帰りください」といった。私は感謝の言葉を述べ、まだ真っ暗な外に出ると、頭に着けた携帯の電燈にスイッチを入れて歩き出した。私はあけきらない暗い夜道を一歩一歩、歩きながらこの旅館のことを思った。江戸時代から営々として営業の灯を守ってきた歴史の重み、冬の雪はおそらく4.5メートルにもなるだろう。おそらく当時は今のように登山なんてないからもっぱら地元の人の湯治場として利用されてきたと思う。こうゆうところに日本人のおもてなしの心が息づいているのかとおもった。勘定は昨日のうちに済ませてあるし、朝の5時だから明かりだけ点けて、弁当を靴と一緒に置いてあっても全然問題はないのだ。私は慎み深そうな、温顔の老婦人のことがいつまでも心に残った。

20分ほど歩いて村営の雨飾山荘についた、ここから出る小型バスが丁度出発するところだったので頼んだが一杯ということで断られた。そのまま歩いていると良い塩梅に車が来たので頼んで乗せてもらう。写真の撮影で来たのだという。5時49分登山口に着く。早速歩き始める。天候は曇り、若干雨模様でもある。なんとか雨だけは降らんでくれ。7時3分荒管沢に着く。途中撫平という橅の大木が何本も生えている一帯があり、折からの風に吹かれてブナの葉がカラカラ雨音のように地面に舞い落ちていた。この朝荒管沢からは山頂は霧に覆われて視界不良だ。すぐ登り始め尾根筋に取り付くと急に冷たい風が吹き付けてきた。体感温度10度以下。早速防寒服に身を固める。結構厳しい登りだったが8時20分には笹平に着いた。一面熊笹に覆われた一帯だ。周囲は霧に覆われて何も見えない。晴れていれば日本海まで望めるというのに残念。8時46分雨飾山の頂上に着く。視界不良。直ちに帰路に向かう。この日も結構登山者がおり。路を開けるために時間がかかる。午前11時44分登山口着。雨が降り始めた。

鎌池と登山口との分岐点で待っていると運よくホンダの軽自動車がポコポコとやって来た。お願いしてのせてもらう。50代前半の女性で一人で大凪山に登り帰るところだという。途中話が弾んで「中土」というところで新そばを供する家があるというんで、一も二も無く賛成して、座敷に上がりこんでざる蕎麦をたべた。腰のある太目のそばでうまかった。彼女には反対方向で恐縮だったが親切に甘えて南小谷まで送ってもらう。糸魚川に住んでるそうだが、それ以上は勿論聞いてない。又、小谷のどこかで行き会うかもしれない。帰りは13時22分の特急あずさに乗る。甲府には4時3分着女房が迎えに来てくれていた。

2007年12月 6日 (木)

20期会

石井パスト会長を中心とした7名のメンバーが二泊三日の旅行に行ってきました。神戸、有馬温泉、倉敷、天候にも恵まれ瀬戸内海の素晴らしい景色を堪能することが出来ました。それにしても東海道ベルト地帯の人、物、金の豊かさを目の当たりに見て圧倒される思いでもありました。1234520_060 1234520_045